「知って聞くは愛なり」部下の心を汲むことが上司の思いやりです。
気持ちと気持ちの組み合わせで仕事は出来上がっていく。
リーダーは、部下やスタッフの心の”くせ”をうまく把握して生かしていかなければなりません。
人を組む、そこに管理職の心の砕きようがあるのです。大変難しいことです。
人組みの基本である「こころを組む」ところをどう考えればいいのでしょうか。
心は水に似ています。
水は手に掴めるように見えて実際には掴めません。掴んだと思った途端に水は逃げてしまう。
水を掴むことは出来ないけれども、手ですくうことは出来ます。人の心も同じで、掴んだように思ってもすぐにすり抜けて行きます。
人の心は、水と同じように掴むことは出来ない。けれども、汲んであげることは出来るでしょう。
心組みは、すなわち心汲みです。部下の心を汲むことこそ、上司の思いやりでしょう。
そして、部下の非を責めることなく、自らの不徳に思いを致す。
大変難しいことですが、人の上に立つ者にとって最も大事なことだと思います。
「般若心経」は、主体的な判断を持つことで、苦悩から解かれることを示している。
ビジネスマンよ、奴隷になるな、自由人であれ!
企業べったりの生き方を止め、もっと自由に生きよ。
我々は以外と物事を自由に見ていない。
特にビジネスマンは常に上司がどう見ているのか、気になってならない。
だから上司の言葉に傷つき、神経症になってしまう。
ビジネスマンでありながら、上司の評価を気にしないでいられる人は、よほど神経が太いか鈍感か、あるいは無神経なんでしょう。
したがって、気になるものを「気にするな」と言ったって、解決になりません。
溺れている人に、「溺れるな」と言うようなものです。
では、どうすれば良いのでしょうか・・・・・・・・?
じつは、「般若心経」がそこのところを教えてくれています。
もっとも、「般若心経」は、具体的な方法を教えてくれる訳ではありません。
どうすれば溺れないで済むのかを、教えてくれるのではなく、人間はもともと水に浮くものだ、だから溺れないで済むのだ、という原理・原則を教えてくれているのです。
さて、「般若心経」が言っていることとは。
−−−全てが「空」だ−−−
と言うことです。
では、「空」とは何か。
ここに、100万円の現金があるとします。
スゴイ「大金」と思いますが、お金持ちだと「端金」だと思う人もいるでしょう。
現金に「大金」「端金」という”物差し”が付いている訳ではありません。
それを見ている人間が、”物差し”を持っているのです。
「空」なるものを、我々が「大金」にし「端金」にしているのです。
ものは「空」なんです。それを私たちが、色々に見ているに過ぎません。
「般若心経」は、
シキ フ イクウ クウ フ イシキ シキソクゼクウ クウソクゼシキ
色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。
色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわち空。空はすなわち色。
と述べています。
この場合、”色”は「もの」という意味だと思ってください。
ものは「空」だ。ものには物差しが付いていないのです。
だから、
フウショウフメツ フクフジョウ フゾウフゲン
不生不滅。不垢不浄。不増不減
消滅せず。きれいも汚いもなく。増えもせず減りもせず。
なんです。
急須の中のお茶の葉を流しの三角コーナーに捨てたとたんに、それはゴミになり汚く見えますが、実際には汚くなんかありません。
私たちが勝手にゴミにしているんです。お茶の葉そのものは「空」であり、不垢不浄です。
この根本原理を認識すれば、神経症にはなりません。
また、「般若心経」は冒頭で、
カンジザイボサツ ギョウジンハンニャハラミタジ ショウケンゴオンカイクウ ドイッサイクヤク
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五薀皆空。度一切苦厄。
観自在菩薩は、般若波羅蜜を行じられて、全てのものが「空」だと照見され、あらゆる苦厄を克服されました。
と述べています。
観自在菩薩→自在にものを観ることが出来る菩薩(仏道を歩んでいるひと)
般若波羅蜜多→ほとけの智慧を完成させること
五薀→我々の精神と肉体、全てのもの
度→克服すること
観自在菩薩がなぜ自由自在にものを眺めることが出来るようになったかといえば、彼が般若波羅蜜の修行をやって、ほとけの智慧を完成して、全てのものが「空」だと分かったからです。その結果、彼はあらゆる苦悩を克服できた。
だから、あなたも観自在菩薩のようにほとけの智慧を完成させて、全ての物事を「空」と見れるようにしなさい。そうすれば、観自在菩薩のように自由自在にものが見え苦悩を克服できますよ。
「般若心経」はそう教えているのです。
要点は、
−−−自由自在に見る−−−
裏返して言えば、私たちは自由自在に見ていない。こだわって見ている。
つまり、「奴隷」になっていて「自由人」ではないのです。
奴隷というのは、ご主人様が自分をどう見ているか、気になります。サラリーマンも上司が自分をどう見ているか気になります。
サラリーマンが奴隷になっているから、上司の言葉で傷つき、神経症になるのです。
奴隷になるな、自由人であれ。「般若心経」はそう教えてくれています。
奴隷というのは、自分独自の価値観を持たずに、会社が押しつけてくる価値観で生きている存在です。
会社が敷いたレールの上を疑いも無く走っている人間。身も心も会社に献げ尽くした会社人間。それは奴隷ですよね。
今までの、日本社会や経済はそういった奴隷人間に支えられて飛躍的に発展してきました。でも、これからはそのような人はきっと「お荷物」になるだろうと思います。
なぜなら、日本の企業は国際化の波の中で、価値観の多様性が求められるからです。会社が与える価値観に従順に従う奴隷人間よりも、主体的な判断力を持った自由人を企業は求めるでしょう。
会社のために・・・と思ってやった事が会社を潰す結果になった。
その時はその価値観で良かったのですが、時代の変遷が価値観を誤りにしたのです。忠臣が逆臣になる。価値観の逆転は頻繁に起こるでしょう、だから会社奴隷であってはいけません。
自由人というのは主体性を確立した人、自分の”物差し”を持っている人です。
会社や世間の”物差し”に従って受身の行動をするのではなく、主体的に判断できる自由人であれということです。
あなたが会社を馘になる事を心配して、会社の命ずるがままに生きているのであれば、あなたは奴隷でしかありません。
しかし、あなたが主体的に判断して、家庭を犠牲にしても会社のために尽くすというのであれば、それは奴隷ではなく立派なことです。
ともかく、自由人であること。自分の”物差し”を持つことが肝要です。
「般若心経」は最後にこのように述べています。
ギャテイ ギャテイ ハ ラ ギャテイ ハ ラ ソウギャテイ ボジソワカ
羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆呵
自由だ。自由だ。自由になった。私はすっかり自由になった。・・・・・・・